釧路町の地名を巡る旅


□ 地嵐別 チャラシベツ

 チャラセ・ペツで水が岩の面をちらばって流れ落ちる川の意だが小川が海に注ぐ所に岩盤がありその上を水が散らばり流れていたというところ。チャラセ・ナイは海岸段丘崖の有るところには多い地名だがチャラセ・ペツというのはあまり聞かない、残された地名としては意外と少ないようだ。

□ 又飯時 マタイトキ

 はっきりした意味のわかっていない地名ですが、アイヌの人から聞いたときに、聞き違えがあったのではと言う人もいます。色々な説があり海の瀬の荒いところ、湧き水があってそれを飲料水にしていたところ、中には旅人か此所で昼飯を何時も食べるからという珍説まで、謎めいていて面白いですね。

□ 宿徳内 シュクトクナイ

 アイヌ語のシクト゜ッ・ウシ・ナイの訛化したものというが、意味はエゾネギの群生する川となるが、川にネギが有るわけではないので此所は沢とする方が自然でしょう。エゾネギはキトピル、行者ニンニクなど、色々な呼び名があり北海道ではわりとなじみの山菜で北海道名物のジンギスカンと合わせると最高なんですが強烈な臭いにはさすがに・・・デモ食べたい・・

□ 嬰寄別 アッチョロベツ

 蝦夷語地名解ではアチョロ・ベツ楡皮ヲ漬ス川「アツ・イオロ・ベツ」の急言となっている。アツはオヒョオ・ニレで厚司と言う着物の原糸を取る樹皮で、昔はニレの木が多くあったようだが今はあまり楡の木を見ることはない。この地域を今は城山(シロヤマ)と呼んでいるが、松浦武四郎の「蝦夷日誌」で城跡や、烽火場などがあったことから城山といわれたのであろう。昆布森の集落を過ぎるとまた丘の上を走ることになる。道道はT字路となり左に進むと、城山と書かれた道標が現れる。分岐の木陰で目立たないが「嬰寄別」のフクロウの案内板がある。

□ 昆布森 コンブモリ

 蝦夷語地名解ではコンブ・モイ昆布湾此湾内昆布多シ故ニ名ク昆布森村とある。コンプは昆布の事でモイは湾、浦、入江、岬の陰になっているような波静かなところを言う。江戸期から有る地名で、明治3年には奥羽、道南から移民が募集され、54戸、193人がこの地区に居住していたという。この地名は従来コンプモイをとって昆布の湾と解釈してきたが、地形を見ると湾より浦が適切と言うのが最近の考えのようだ。地名として古文書に早く現れるのはチョロベツで、コンブムイは比較的新しく、現在の昆布森市街はチョロベツを指していると考えられている。

□ チョロベツ川

 現在の昆布森市街付近の地名。蝦夷語地名解ではチロ・レウプ 鵜ノ棲止スル處とある。チョロベツをマガモが降りる川としている説も有るが釧路地方ではマガモの事をペルトン・チカプ「ペツ・オル・ウン・チカプ」といっていたと聞いているが?どちらにしても鳥にちなんだ名前には違いないようだ。昔の人はマガモのことを青首と呼んでいたと言うが特徴を端的に表現していて面白いですね。チョロベツ川は昆布森市街に河口を持つ小さな川です。厚岸の尾幌川に抜ける通路が有った様です。

□ 伏古 フシコ

 伏古籠(フシコモリ)元昆布森の岬の陰に有った集落の地名で旧昆布森役場の戸籍でフシコ昆布森となっているようだが地図では伏古とだけ書いてある。伏古は古い村、元の村と言う意味だが伏古籠の集落は昭和30年頃から海岸浸蝕によって浜は決壊し、住み家も不安となって昭和53年に昆布森市街に集落移転したので、ほんとうに元の村なのだが。伏古籠(フシコモリ)はフシコ・コンブ・モイの訛化したもので昔の昆布湾という意味か。伏古は道内各地に有り多い地名のひとつです。

□ 幌内 ポロナイ

 この地名は北海道に良くある地名の一つですが地域によって使われ方が違い多いわりには解釈が異なることが多い。道北では殆どが大きな川ですが、小さな川が多いところではその中で一番大きな川や沢に付けられる事も有る。蝦夷語地名解では「小川にしても魚類も又無し」と解いている。此所では小さな川が多いところで、その中で一番大きな川に付けられたのだろう。地形からするとあるいは奥深い沢かもしれない。

□ 来止臥 キトウシ

 北海道には多い地名だが「キトは行者ニンニク、ウシは群生する」と言うところからきた地名。行者ニンニクは、アイヌねぎとも呼ばれるユリ科の多年草で地下にらっきょうに似た球根を持ちます。北海道ではわりとなじみの山菜ですが、アイヌの人たちにとっても、食用としてまた薬用として貴重なもので、キトウシと言う地名の多さからも容易に想像出来ます。行者ニンニクの群生していたキトウシには、崖の上には水場と簡単なトイレだけというシンプルなキャンプ場があります。好天ならばその眺望は最高です。先人達の暮らしに思いをはせキャンプ場から1日中太平洋を眺めて過ごすのも良いかも。霧がなければ最高。

□ トド岩

 かつて、トドが生息していたことがあります。トド岩への道は、来止臥キャンプ場を後に車で数分、看板のある所で車を止め深い林道を15分ほど歩くと展望台に出ます。真下には、トド岩、横には立岩、タコ岩も現れるとっておきの展望台です。蝦夷語地名解に載っているイタシベ・シュマ 海馬岩 黒岩ありというのがこの岩のことなのか僕には解りませんが。

□ 十町瀬 トマチセ

 トマ・チエ・ヌプに当て字をしたものと言うがトマはエゾエンゴサクのこと、チエは我々が食う、フプは湿った原野と言うことからこの地にはエゾエンゴサクが広く群生していた所だったのだろう。松浦地図はシマ・チエ・ナイとなっている。エゾエンゴサク「蝦夷延胡索」は、ケシ科の多年草で高さは10センチから20センチ程度。4月から6月にかけて鮮やかな青紫色の花を「白やピンクの変異種もあり」多数咲かせます。エンゴサクの塊茎は食用として珍重され、漢方では薬用として鎮痛に用いられた。十町瀬から跡永賀までの砂浜は昔の街道あとと。釣り人の中には波の静かなときに海岸沿いを歩いてトド岩、タテ岩まで行かれた方もいると思いますが、普通は十町瀬川までが無難なところでしょう。海が荒れると退路を断たれる事も有るので注意してください。入口は浦雲泊に下る道に入り、途中で右に進み行き止まりの所で数台が駐車可能、狭い道で対向車が有ると交差は困難で大型の車にはきついが軽自動車サイズなら余裕。

□ 浦雲泊 ポントマリ

 北海道各地にある地名で特に珍しい地名では無いのだが浦雲泊と書くと話は別ですね。とたんに難解地名の仲間入りです。昆布とは逆にトマリ=泊は日本語からアイヌ語に入った言葉です。ポンは小さい、トマリは停泊港を意味し、意訳すると小さい船着き場、あるいは小さな舟入間。沖合いの岩場で浪が静まり、穏やかな入り江になっていて船の出入りができる。昔は集落の裏山に炭鉱があり石炭を海上から搬出したというが、すでに廃坑となっている。石炭は今も有るようだが・・

□ 跡永賀 アトエカ

 江戸期から見られる名前で、アトウイ・オカケが正しいようですが、本当の処は解りません。ブイマ、ソンテキなどを含めての総称で、アイヌ語地名解では「昔は海中なりしが今は沙湾に変ず、故に名づく」とありアトウイ=海.オカケ=跡の所の意味で、浸食の激しい海岸に有って新たに出来る陸地も有ると言うこ事を物語っている。沿岸は川口に沿って天然の港となり、コンブのほか、タコ、サケ定置などの好漁場となっていた。1870年に和人移住以来一時はかなり栄えた部落である。

□ 冬窓床 ブイマ

 跡永賀の一部で、アトエカ・ブイマを合わせて跡永賀と呼ばれていた。地名もブヨマ・アトエカといわれていたという。蝦夷語地名解では「穴のある立岩」と解し「和名ローソク岩という、大岩海中に立ちて穴あり、昔は二岩並立せしが今は一岩あるのみ」とあり、古くは、高低二つの立岩があり、仏岩あるいは夫婦岩と呼ばれ釧路からの行程を図る目標とされていたようです。地名はこの岬の陰をプイ・モイ「穴の入江」と言ったのに当て字をしたものというがどこから見ても読めないですよね〜

□ 初無敵 ソンテキ

 蝦夷語地名解では「トンテキ海沼」とあるが、「ションテキ」・「ションキチ」など色々な言い方が有ったようです。トウンテクは沼であるような、ソンティクとするとソは水中のかくれ岩、テイクは状態を表わし海中に岩が多い所となる。岩礁などが天然の防波堤代わりになって沼のように静かな海岸だったのでしょう。昔は砂浜も広く、昆布の好漁場でとなっていた所で7〜8戸の漁屋があつたということですが、現在のソンテキは陸波が荒く海岸の浸蝕がはげしい所で、漁屋もない。自然の厳しさの前に無人の地となり、地名だけが残ったところです。

□ 入境学 ニコマナイ

 蝦夷語地名解では「ニオッケ・オマ・ナイ」「桶、小川に桶あるを見て名づく」とあるが、アイヌ語辞典から考えると、「ニコ・オ・マ・ナイ」川尻に流木が集まる川とも、おけが桶が流れてきた所と言うのが地名に残ることに疑問も有るが、川尻に流木が集まる川というのはいかにも有りそうですね。同じような地名も各地に残っている。いずれしても、木がポイントなのですがここでは川尻に流木の集まる川を採用です。昔はかなりひらけたところで、明治40年代には宿屋が2戸もあったそうです。

□ 賤夫向 セキネップ

 蝦夷地名解では「チエプヌルンケプ小岩ノ崩レ落チルコト魚ノ川ヲ下ルガ如シ故ニ名ク」とある。「ケプネ禿山」と言う記載もあり地形の様子からはげ山で、石の落ちるところとしているが珍しい地名で他の地域では聞いたことがない。和人が住みついたのは明治30年代といわれ、集落も有ったが1941年の豪雨により背後の山が崩壊、数戸が一瞬にして海中に押し流され、これ以降海岸の浸蝕等による離村が相次いだ。

□ 分遺瀬 ワカチャラセ

 蝦夷語地名解では「ぺチャラセ滝」と解いている。アイヌ語地名解では、ワッカチャラセで飲水ちりばり落ちるとしているが、ワッカは飲み水、チャラセは小川が斜面を飛沫をなしてすべり落ちる、あるいは細い滝となって落ちているの二通りが考えられるが水が滝状となって落ちているところは同じ。

□ 龍神口

 分遺瀬からオタモイまでの間の岩礁や岩場のところで、海中には奇岩がそそりたち、龍の口に似ています。明治の橋目にはすでに龍神口と呼ばれていたと言います。断崖の草原に蛇が住みついており、蛇塚になっているとも伝えられていますが蝦夷語地名解には出てこない地名です。

□ 老者舞 オシャマップ

 松浦武四郎の「蝦夷日記」には載っているが蝦夷語地名解には出てこない地名で難解な地名と言われ、色々な説が有る。オシャマップはオ・サマッキ・プとして川尻に横たわっている倉のような形となり、シュマ・マップで岩、倉のような山となり、川尻に蔵の形の岩山があるところとなったというが、もっと単純にいうと川尻が横になっている川という考えもあるか。川口の岩は大黒岩と呼ばれ、その前に開基百年の碑が建立されていますている。他の記録によると「ヲエシヤチマエ」・「ヲエチャンマフ」・「オエサマブ」等の記載があり、「川尻に鮭鱒産卵場あるもの」でもおかしくはないが。別尺泊での案内板の分岐点から集落までは細いながらも舗装されていて、終点に港がある。老者舞付近にはオタモイ「静かな砂地の入江」という地名も存在していた。この地名は蝦夷語地名解にも記載されている。

□ 知方学 チポマナイ

 尻羽岬、去来牛に行く手前に、知方学がある。蝦夷語地名解でチプ・オマ・ナイ「舟のある川の意、往時舟流レ寄リシ処故ニ名クト云フ」とあるが、アイヌ語地名解では「昔、船がここに流れ寄ったことがあるので名付けた」となっている。音どおりにチェプオマナイとすると、チェプ・オ・マ・ナイで河口に魚がよるところ、魚影が濃いところだったのかもしれない。釧路町史では高見・去来牛・尻羽の三つの崎を総称し美崎地区と言ったというが、今は、高見の崎が崩落しその面影は無いという。知方学はこの辺では大きな集落で、学校もある。道は狭い砂利道で対向車を心配しながら下る事になるだろう。

□ 去来牛 サルキウシ

 蝦夷語地名解では、サクシュウウシ「夏銅」とある。サルキウシのサルキはよし、ウシは群生しているよしの群生しているところことなる。去来牛には分岐点を曲がり急斜面の崖沿いの道を下ると海岸に着くが道は狭いので注意してください。民家も何軒かある小さな集落で小さな船着き場があります。

□ 尻羽岬 シレパミサキ

 地名解に出てくる岬の名が三つあるがどれもこの岬の事でシレパは地の頭の出ている岬のこと、ノトロ=人のアゴに似ている岬のこと、ノテド=アゴと鼻に似ている岬のこと。高山植物が咲き、厚岸湾を臨む景観がすばらしいところです。奇岩も多く、ここにある帆掛岩は日高から船で逃げてきた源義経主従が沖合いで猛吹雪に合い、座礁し、義経が断崖を登って石像になり、船が岩になったという伝説が残され、岩には鳥居が建てられています。知方学方面に進み、案内標識に沿って左折し道なりに進み去来牛への分岐を過ぎるとまもなく行き止まりになり駐車場。ここに車を置いて歩くこと約20分程で尻羽岬。

□ 別尺泊 ベツシャクトマリ

 更科源蔵氏のアイヌ語地名によると「厚岸湾に向かった釧路町の部落。ペッ・サク・トマリ「川が乾く船着き場)からでた地名」とある。これから見ると人が住んでいた形跡は感じられるが、完全な陸の孤島で別尺泊への道はない。地名解ではシュウ・サック・トマリ鍋なし泊。これだとシケのときに舟を待避させていた場所で人は住んでいなかったというようにも考えられるが此所では更科説を採りたい。地図に載っている地名というのは人の生活と色んな意味で繋がっていると考えるからだ。古番屋と別尺泊の間には、地名板のほかに地名が存在していた。地名解では「ポン・ワタラ・ウシ小岩アル処」といい海中に岩礁が多いところなのだろう。外国船がここで避難停泊したときに崖に炭層が露出していてこれを燃料使ったと言う話がある。古番屋の案内板付近から道道は海岸から離れ内陸を走るようになる。

□ 古番屋 フルバンヤ

 この地名は地名解に無く和名のようにも見えるが、アイヌ語で綴ると、フル=丘)パン=川下の)ヤ(陸・陸岸)となり、川下の陸岸が丘になっている所をいったもののようだ。古文書にあるセンポウチは、このフルバンヤを指したものと考えられている。このあたり昔は陸岸も広く、徳川幕府の税庫や会所、駅逓所、あるいはアイヌの砦跡がありここから対岸へ船で往来していたともいわれています。明治から大正にかけ湾内ニシン漁が盛んな時はここに大きな漁舎があり、その杭跡が今でも海中に残っているという。古番屋の入口に有る案内板から入れますが途中で立ち入り禁止になり行き止まりになっています。

□ 仙鳳趾 センポウシ

 もともと古番屋(フルバンヤ)の地がセンポウシと呼ばれていたが、漁場の移動に伴い現在の所になったようです。蝦夷地名解では、チェプ・ポオチ「小魚ノ居ル處・鯡多ク居ル處ナルヲ以テ名クトアイヌ云ウ・仙鳳趾村ノ原名」とある。小魚のたくさんいる所という意味で、明治期のニシンは中〜小ニシンが主で湾一杯にニシンが押し寄せ活況を呈していた。明治後期になるとサケ定置網も行われ、昭和初期まで、ニシン、サケなどの漁場で栄えた。明治8年から仙鳳趾村と表記され病院、宿屋などもありました。仙鳳趾周辺には地名板のほかにも呼ばれていたりする地名が存在する。別太(ベップト)河口や川の合流部の意味だが此所では河口で、今の仙鳳趾市街の河口に付けられていた。仙鳳趾の裏の地名でオタクバウシというのが有るが、これはヤチボウズの群生している所。厚岸は同じ字でセンポウジ。

□ 重蘭窮 チプランケウシ

 地図には載っていないが仙鳳趾の隣に有る集落付近の沢に付けられいた地名で蝦夷語地名解ではチプ・ランケ・ウシ 船ヲ下ス處 山中ニテ船ヲ作リ此處ニ船ヲ下ス處とある。比較的遅くまで使われていた地名ですが、それだけ大事な場所だったのでしょう。古代の造船所と言うわけですね。

此所で参考にしたのは北海道蝦夷語地名解、アイヌ語地名解
コタン生物記、北海道の地名、地名アイヌ語小辞典などです。


釧路町の地名巡る 湿原と川


□ 別保 別保川 ベッポ

 蝦夷語地名解ではベッ・ポ・ブト大川口とだけ書いてある。釧路川と別保川の合流部を意味する。ベッ・ポだけだと小さい川で有るが実際はかなり大きな川ですが、釧路川と比較すると小さいと言うことでしょうか。別保は広域の地名で地名の元はボッポから、読みは難しくは無いが珍しい地名ですね。

□ 遠矢 トーヤ

 蝦夷語地名解ではトーヤ沼丘となっている。遠矢は床丹の北で旧釧路川の東岸にあり釧路湿原に丘陵が突き出た地形である。トー・ヤは沼の岸を言うがそれらしき沼は無い。元は別の處の地名なのか、それとも昔はこの近くに沼が有ったのだろうか。同じ名前では道央には有名な洞爺湖が有ります。

□ 鳥通 トリトオシ

 鳥通は岩保木の北側で遠矢から達古武に行く途中に有る集落の地名で、蝦夷語地名解ではトリ・ドイエ・ウシ榱ヲ斫ル處となっている。船の棹にするのに好いまっすぐに伸びている木が多かったのでしょう。湿原でまっすぐ伸びる木というとアオダモのことか?水郷ならではの地名ですね。

□ 床丹 トコタン

 蝦夷語地名解ではトゥ・コタン廃村と有るがこの辺は釧路湿原を控えた土地柄からするとト・コタン沼の村だったのかもしれない。更科アイヌ語地名解では沼辺の部落という説を採っている。廃村の理由が解っているのを別にすると、廃村なのか沼辺の村なのかの区別は難しい事が多い地名だ。

□ 岩保木 岩保木山 イワホキ イワポッキ

 蝦夷語地名解ではイワ・ポキ山下とある。床丹の北で旧釧路川の東岸の地名、山名で有る。イワは信仰の山、霊山でポキはその麓のこと。岩保木山は標高120メートル前後の小山だが湿原に突き出ていて釧路湿原の隠れた展望台として知られる。麓には夕日の名所岩保木水門が有ります。

□ 達古武 タッコブ

 蝦夷語地名解ではタッコブ小丘だが解りやすい言葉で言えばこぶ山と言う方が適当で山と言うよりは丘である。岩保木の北の地名で沼名となっている。沼の北側が湿原に突き出ていて先端が瘤状になっているところに付けられた名前と言うことだ。達古武沼は釧路湿原三湖の中で一番南に有る沼。


地名はその町の大事な文化遺産です。大切に守っていきたいですね ではよい旅をしてください


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